第二章 ―― 誰の目にも触れない、台所の時間で
深夜零時をまわった台所で、私は明日の煮物のために里芋の皮をむいていました。息子は隣の部屋で、小さな寝息を立てています。指先はぬめって、鉄のにおいの染みついた包丁がまな板を叩く音だけが、家の中に響いていました。
ふと手が止まったのは、皮をむき終えた里芋を水を張ったボウルに沈めたときです。白い実が、少しずつ濁っていく水の底でじっとしている。それを見ていたら、なぜだか涙が出てきたのです。理由は自分でもよく分かりません。ただ、この子のために毎日下ごしらえをするこの手があの子を守れているのかどうか、急に分からなくなったのです。
よりみちナビゲーターの対話(続き)
サキ:この里芋の場面を読んで、私は息が止まりそうになりました。夜中の台所で、理由も分からず涙が出る。それはあなたがもう、限界の手前まで来ているということです。決断ができないから泣いているのではなく、たった一人で決断を背負い続けてきたから、身体のほうが先に音を上げたんですよ。
ケンゴ:私もこの涙を軽く見るつもりはない。ただここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。この方は「守れているか分からない」と言うが、守るという言葉の中身がいつの間にか、二つに分かれてしまっている。一つは「病気から守る」。もう一つは「非難する視線から守る」。この二つを混ぜたまま考え続けているから、出口が見えないのだと思う。
サキ:ケンゴさん、その整理は正しいと思います。ただその二つは、この方の中では本当に別々のものでしょうか。「病気から守る」ことも「視線から守る」ことも、根っこは同じ——「この子を、悪いようにはしたくない」という、一本の願いから伸びた枝ではないかと。切り分けて考えろと言われても、母親の心の中ではそんなにきれいに分かれてくれないんですよ。
ケンゴ:……そうかもしれない。私は切り分けたほうが楽になると考えていた。だが、切り分けられないものを無理に分けさせることがかえってこの方を責めることになるとしたら、それは私の傲慢だ。取り消そう。願いは一本でいい。ただ、その一本の願いをどうすれば安心して眠れる形にできるか——そこを一緒に探したい。
シオン:面白い。二人が今たどり着いた場所は、実は同じところではないだろうか。里芋を水にさらすのは、あくを抜くためだと聞いたことがある。えぐみを取って、明日食べる人の身体にやさしくするためのひと手間だ。
この方は情報のあくを抜こうとして、疲れ果ててしまったのかもしれない。肯定派、否定派、どちらの水にさらしても濁りは消えなかった。だが——あくを抜ききることはそもそも、誰にもできないのではないか。少しの濁りを抱えたまま、それでも鍋に入れる。決断とは案外、そういうものかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ(続き)
四つめ。あなたは「完全に正しい答え」を探しているのかもしれません。けれど育児に完全な正解が用意されていたことが、これまで一度でもあったでしょうか。離乳食も、寝かしつけも、あなたはいつも「濁りを抱えたまま」選んできたはずです。ワクチンだけ、なぜ完璧を求めてしまうのでしょう。
五つめ。もし五年後のあなたが今夜の台所に立つあなたを見ていたら、何と声をかけるでしょうか。「早く決めなさい」でしょうか。それとも「よくここまで一人で考えたね」でしょうか。
六つめ。あなたが本当に欲しいのは「打つ/打たない」の答えではなく、「もう一人で抱えなくていい」という許可なのかもしれません。それを出せるのは医師でも職員でもママ友でもなく、あなた自身ではないでしょうか。
本日の羅針盤(第二章)
サキとして、私はあなたにこう言いたいのです。夜中に里芋の水を見て泣けるあなたは、すでに十分すぎるほどこの子を守っています。守れているかどうかを問い続けるその姿こそが、守っている何よりの証なのですから。
ケンゴの言葉を借りるなら、願いは一本でいい。「悪いようにはしたくない」——その一本を恐怖ではなく、あなたが確かめた情報と、あなたを責めない誰かの手を借りて、少しずつ形にしていけばいい。今日すべてを決める必要はありません。二種類を打った日、副反応は出なかった。その事実もあなたが自分で確かめた、大切な一つの情報です。
シオンの声に従うなら、濁りは抜けきらないものです。抜けきらない濁りを抱えたまま、それでも今日の一皿を作るのが生活というものなのでしょう。完璧な水にたどり着けなくても、あなたの鍋からはちゃんと湯気が立っています。
人が怖いという気持ちは、簡単には消えません。けれどその怖さの向こう側で、あなたはもう一つのことに気づき始めているはずです。あの医師の言葉に傷ついたのは、あなたが息子さんを本気で愛しているからだと。愛していない親は、傷つきさえしないのですから。
改めてお伝えします。接種の判断については、押し問答の医師とは別に、あなたの不安を否定せず向き合ってくれる小児科医を探すこと、そして自治体の保健師や子育て支援センターに、まず「決めるためではなく、話すために」相談してみることを心からおすすめします。眠れない夜が続くようなら、あなた自身の心を支える窓口を頼ることも、どうか忘れないでください。




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