住まない家の、鍵と借金 ―― 名義という名の、見えない鎖
よりみちナビゲーターの対話(承前)
サキ:さっき私、「予定していなかった出費が来た夜に、名義が牙を剥く」って言いましたよね。もう少しだけ、具体的にお話しさせてください。この海沿いの家、二十年以上経っていれば潮風で外壁も傷みますし、給湯器もそろそろ寿命なんです。
ある朝、お湯が出なくなる。修理に十数万。そのとき、この家に住んでいるのは奥様とお義母様と娘さん。でも「この家の持ち主」は、もうここにいないこの方なんですよね。誰が直すのか。誰が決めるのか。住んでいない人に修理費の請求が回り、住んでいる人には直す権利がない――そんなねじれたことが起こりうるんです。
ケンゴ:サキの言う通りだ。そしてもっと重い話をしなければならない。ローンがこの方名義のまま家を出た場合、その家は「この方の資産であり、この方の負債」だ。
新しく開く自転車修理の店が軌道に乗らず返済が滞れば、金融機関は担保である家を差し押さえにかかる。そのとき住んでいる妻子の生活は、自分たちの落ち度とは無関係に足元から崩れる。「家賃も生活費も入れなくていい」という妻の提案は、一見この方に自由を与えているように見えて、実は妻自身の住まいを別れた相手の経営判断に、人質として差し出しているに等しい。
アキ:……聞いてるだけで胸が苦しくなってきた。でもさ、ケンゴさん。この人、たぶんそこまで冷静に計算した上で「出ていってもいい」って思ったんじゃないと思うんだよね。私ね、この「もうここには戻らないで」って奥さんの言葉、すごく極端だなって思ってて。
人って、本当に静かに終わりにしたいときはこんな刺すような言い方しないんだよ。この激しさは奥さんのほうもまだ、何かに傷ついてる証拠なんじゃないかな。
ケンゴ:その見方は否定しない。ただ――アキ、私はここで一つだけ引きたい線がある。夫婦の気持ちがまだ揺れているのは分かる。だが、揺れている感情のまま契約や名義を「なんとなく」で進めてしまうのが、いちばん危険なんだ。
夫婦の心は五年後に和らぐかもしれない。だが、五年間払い続けた借金の名義は和らいでくれない。私が見てきた家庭のいくつかは、まさに「感情が回復した頃には、財産関係が取り返しのつかないことになっていた」ケースだった。
アキ:……うん。それはわかる。悔しいけど、わかるよ。気持ちは動くけど、書類は動かないんだよね。
サキ:お二人の話を聞いていて、この方にお伝えしたいことが一つ、はっきりしてきました。「離婚するかどうか」を今すぐ決めなくていいんです。でも、「この家にこれから誰が住んで、誰が払うのか」だけは気持ちとは切り離して、紙に書いて、専門家と一緒に確かめてほしい。それは冷たい作業じゃなくて、この方と娘さんの明日の朝ごはんを守る作業なんですよ。
ケンゴ:整理すると、現実的な選択肢は大きく三つに絞られる。
一つ、家を売却してローンを清算し、それぞれが身軽になる。
二つ、妻が家に住み続けたいなら、名義と返済を妻側へ移す道を金融機関と探る――ただしパート収入では審査の壁が高い。
三つ、離婚という形を取り、財産分与の枠組みの中で住宅の扱いを法的に取り決める。
どれを選ぶにせよ、「本人は出ていくが名義は本人のまま」という現状案だけは、時限爆弾を家の床下に埋めるようなものだと、私は思う。
自分に問いかけるロードマップ
- もし五年後、夫婦の気持ちがどう変わっていても、この家のローンと名義は「今日決めた形」のまま残る。その事実を受け入れられる決め方をしているだろうか。
- 「家を出る」ことと「名義を手放す」ことは別の話だ。その二つを、あなたは同時に進められると思い込んでいないだろうか。
- 給湯器が壊れた朝、住んでもいない家の修理費が自分に回ってくる――そんな状況をあなたは何年受け入れられるだろうか。
本日の羅針盤
第二章で見えてきたのは、「気持ちの決着」と「契約の決着」はまったく速度の違う二つの時計だということです。
気持ちの時計は、進んだり戻ったりします。今は「出ていってもいい」でも、来年には違う思いになっているかもしれません。それでいいのです。人の心とは、そういうものです。
けれどローンと名義という契約の時計は、一度動き出したら後戻りしません。だからこそ、心の時計がまだ揺れている今こそ、契約の時計だけは感情から切り離して、正確に合わせておく必要があります。
具体的な第一歩として、離婚と住宅ローンの双方に精通した弁護士、あるいは住宅ローンに詳しいファイナンシャル・プランナーへの相談を、気持ちが固まる前に始めることをおすすめします。「まだ何も決まっていないから相談できない」のではなく、「決める前に、どの道にどんな帰結があるかを知るため」の相談です。
そして眠れない、食べられないといった状態が続く場合は、心の健康を守るためにも地域の相談窓口や医療機関の利用をためらわないでください。
第三章では、この方が「出ていってもいい」という言葉の奥に置き忘れてきたかもしれない本当の願いのほうへ、シオンを交えて静かに降りていきます。




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