第三章 不公平を数えないで、その人と会う
九月に入って最初の金曜、私は結局、彼女と会った。会う前にひとつだけ、返信の最後に付け足していた。「あと、私も仕事の話していい?」。送信してからスマホを裏返して、机に置いて三分くらい書類の角を揃えていた。
返事は二十分後に来た。「いいよー、何かあったの?」。
その夜、私は十二分ほど話した。工程管理の電話のこと、手が震えたこと、桁を間違えて先輩に頭を下げてもらった日のこと。彼女は途中で「え、それ大丈夫だったの」と聞いてくれて、そのあと「私も昔さ」と自分の話に移った。十二分で終わった。
帰り道の夜も、まだ蒸している。歩道の植え込みから虫の声がしていて、八月とは音の密度が違っていた。腹は立っていない。ただ、少し疲れていた。十二分話せたことは嬉しいのになぜ疲れているのか、自分でもよく分からなかった。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:まず、これは前に進んだよ。送信してからスマホ裏返して書類の角揃えてるとこ、私、読んでて笑っちゃった。分かるんだよ、あの手持ち無沙汰。
サキ:ええ。そして返事が二十分後だったというのも書いてありますね。この方は時間を数えていたんですよね。
アキ:数えてたね。二十分ってたぶん本人の体感では、一時間くらいあったと思う。
ケンゴ:結果として、要求は通った。「いいよー」と返ってきて、実際に十二分話せている。私の見立てでは、これは成功と評価してよい事例だ。ただ、本人は疲れている。ここに何が起きているのかを、私は整理しておきたい。
アキ:私の見方を言うと、十二分が短いんじゃなくて、十二分が「もらったもの」だったから疲れたんだと思う。
ケンゴ:もらったもの、というのは。
アキ:許可を取って、時間を分けてもらって話した。ちゃんと聞いてもらえたし、心配もされてる。でもそれ全部、自分が申請して手続きを通した結果なんだよね。相手が自然に「最近どう?」って聞いてくれた十二分とは、質が違う。同じ十二分でも、疲れ方が違うの。
サキ:……申請が要る関係、ということですね。
アキ:そう。それを一回やってみて、本人はたぶん気づいたんだと思う。申請すれば通る。でも毎回申請しないといけない。それが分かったから、疲れてる。
ケンゴ:そこは受け止め方を変えたい。申請が要ることは、必ずしも欠陥ではないと私は思う。世の中の関係の大半は、こちらから出さなければ何も来ない。自然に聞いてくれる相手を基準にすると、ほとんどの人間関係が失格になる。
アキ:それはそうかもしれない。ただ、失格にしないため自分の期待を下げていくのって、この人がずっとやってきたことなんだよ。「相手はこういう人だから」って納得して、金曜を差し出してきた。同じ場所に戻る危険はあると思う。
ケンゴ:……その指摘は重い。期待を下げるのと相手の性質を把握するのは、外から見ると同じ形になる。私が言いたかったのは後者だが、本人の内側では前者になり得る。区別する方法を持たないと、私の言い分は危険だ。
サキ:区別する方法について、私は生活の側から一つ思うところがあります。「その人と会ったあと、翌朝どうなっているか」を見るんです。
アキ:翌朝。
サキ:はい。期待を下げて我慢しているときは、翌朝が重いんですよね。起きたくない、洗い物が溜まる、休みの日に何もできない。逆に相手の性質を把握して付き合えているときは、疲れてはいても翌朝が普通に来ます。この方は「少し疲れていた」と書いていますが、腹は立っていないとも明かしています。私は翌朝を聞いてみたいですね。
ケンゴ:それは実用的な指標だ。感情の内訳を分析するより、生活の状態を見る。私はその方法を採用したい。
アキ:私もそれ、いいと思う。自分の気持ちって聞いても分かんないときあるけど、洗い物が溜まってるかどうかは目で見えるもんね。
シオン:……少し、話の外から言葉を置かせてもらってよいだろうか。
アキ:あ、シオンさん。
シオン:三人の話を聞いていて、私はひとつのことを考えていた。この方ははじめ、「なぜ私ばかりが話を聞いているのか」問うていた。次に「私は何を望み、それを渡したか」と問い直した。そして今、「十二分もらえたのに、なぜ疲れているのか」と問うている。
問いが外から内へ、そして内のさらに奥へと移っている。これは答えが出ていないから問い続けているのだろうか。それとも、問いが育っているから次の問いが立てられるのだろうか。
サキ:……育っている、と考えることもできるんですね。
シオン:分からない。ただ、ひとつだけ言えることがあるかもしれない。不公平を数えるという行為はそもそも、相手を大切にしている者にしか起こらないのではないだろうか。どうでもいい相手との時間配分を、人は数えない。この方は専門学校の頃から続く一本の縁を、手放したくないから帳簿をつけていた。帳簿は、愛着の形をしていることがある。
アキ:……それ、第一章で私が言いたかったことに近い気がする。大事だから痛いんだって。
シオン:そうかもしれない。そして帳簿は、いつか閉じてもよいのだ。閉じるというのは、許すことでも諦めることでもない。数えるのをやめるというだけのことだ。数えなくなった相手のことを、人はときどき以前よりよく見るようになる。
ケンゴ:私はひとつ、実務的な点を残しておきたい。この方は十二分を確保した。次に必要なのは、その十二分を「毎回申請しなくてよい形」にすることではなく、申請できる相手を増やすことだと私は考える。一人の相手に聞かれる機会をすべて託さない。それが最も再現性の高い解だ。
アキ:あー。土台を分散させるってこと。
ケンゴ:そうだ。友人一人が悪いのではない。一人に全部を担わせる設計に無理があった。
サキ:それは私も同意します。会う相手が三人いれば、金曜の一時間半は生活を圧迫しませんからね。
自分に問いかけるロードマップ
- 会った翌朝、あなたの部屋はどうなっていましたか。流しに何か溜まっていましたか。それが答えの一部です。
- 十二分話したあとの疲れは、話せなかった夜の疲れと同じ種類のものでしたか。違うなら、どこが違いましたか。
- 「申請すれば通る」と分かったいま、次に申請したいことは何ですか。仕事の話でしょうか、会う時間を短くすることでしょうか。
- あなたの話を聞いてくれる相手は今、何人いますか。一人だとしたらそれは相手の問題ではなく、設計の問題かもしれません。
- 不公平を数えるのをやめたとして、それでもあなたはその人と会いたいですか。会いたいなら、その理由を三つ挙げてみてください。
本日の羅針盤
三章を通じて、答えは一本になりませんでした。最後に、それぞれの視座を並べて置きます。
アキの羅針盤──もらった十二分と自然に来た十二分は、同じではありません。その違いに疲れたあなたの感覚は、正しいものです。感覚を「わがままだ」と処理しないでください。ただし、その違いを埋めることを一人の相手に求めなくてよい。あなたの話は、申請しなくても聞かれる場所に、いつか置かれていいものです。
ケンゴの羅針盤──一人の友人に聞かれる機会をすべて託す設計に無理がありました。悪人はいません。あるのは配分の誤りです。申請できる相手を増やす。これが最も再現性の高い解だと私は考えます。そして、期待を下げることと相手の性質を把握することは、外から見て同じ形をしています。混同しないための指標を、サキさんが示してくれました。
サキの羅針盤──翌朝を見てください。感情の内訳が分からない日でも、流しの洗い物と布団から出られるかどうかは目に見えます。関係が生活を削っているかどうかは、そこに出ます。判断は気持ちではなく、生活に任せてよいのです。
シオンの羅針盤──不公平を数えていたのは、その相手が大切だったからだ。帳簿は愛着の形をしていることがある。そして帳簿は、いつか閉じてもよい。閉じるとは許すことでも諦めることでもなく、数えるのをやめるということだ。数えなくなったあと、その人のことを以前よりよく見るようになるかもしれない。ならないかもしれない。それは、これから先の八月が決めることだろう。




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