エピローグ 数えなかった数分
十月の初め、朝の空気がようやく変わった。事務所の窓を開けると風に湿気がなくなっていて、腕が冷える。夏の間ずっと回っていた扇風機を、先輩が倉庫にしまいに行った。
その日の午後、現場に届けなければならない書類が出た。先輩が外に出ていたので、私が行くことになった。車で二十分ほどの、住宅街の建て替え現場だ。
着いたらちょうど養生シートの外で、内装の職人さんが休憩していた。春に私が初めて電話をかけた相手だった。声は覚えていたけれど、顔を見るのはその日が二度目だった。六十歳くらいの、日に焼けた人だ。
書類を渡したらその人はざっと目を通して、「はいはい、これでいいよ」。それから顔を上げて、「おねえさん、若いのにしっかりしてるねぇ」と言った。
私は何と言い返したのか、あまり覚えていない。たしか「そんなことないです」と言って、それから電話のとき手が震えていたことを、なぜか自分から話した。その人は笑って、「そりゃそうだ、俺だって最初は職人さんに電話するのが怖かった」と言った。それからこの現場の壁紙の柄がどうやって決まったかとか、施主さんの奥さんが三回も柄を変えたとか、そんな話を数分した。
現場のラジオが小さくかかっていて、コンクリートに置かれた缶コーヒーの横で蟻が一匹動いている。空は夏のあいだ見ていたのとは違う高さにあった。うすい雲が、ずっと遠くのほうに引かれている。
車に戻ってシートベルトを締めたとき、気づいた。今の数分は八月の十二分より、ずっと楽だった。
何も申請していなかった。時間を分けてもらっていなかった。数えてもいなかった。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:これ、いい場面だね。私、車に戻ってシートベルト締めたところで気づくっていう順番が好き。その場では気づかないんだよ。身体が先に楽になって、あとから頭が追いつく。
サキ:ええ。そして「何も申請していなかった」という一行に、三章分の答えが入っていますね。
アキ:入ってる。でも私、ここで一つだけ言っておきたいことがあるんだよね。この数分が楽だったのは、たぶん「利害がなかったから」じゃないと思う。
ケンゴ:どういうことだろうか。
アキ:よく言うでしょ、通りすがりの人だから気楽なんだ、深い関係じゃないから楽なんだって。私、それと違うと思う。この人が楽だったのは、自分が手が震えたことを、自分から言えたからだよ。友達には申請してから話した。職人さんには聞かれる前に、自分で出した。順番が逆なんだよね。
サキ:……たしかに、そうですね。「そんなことないです」のあとに、頼まれてもいないのに震えた話をしているんですよね。
アキ:そう。それってこの人が三章かけて練習してきたことじゃない? 自分の話を出す練習。友達との十二分は、疲れたけど無駄じゃなかったんだよ。
ケンゴ:私はその見方に半分賛成する。ただ、半分は別の説明をしたい。
アキ:どうぞ。
ケンゴ:この職人は最初に、「しっかりしてるね」と評価を渡している。つまりこの場では、相手のほうが先に手を開いた。相談者が出せたのは、先に受け取ったからだ。私はこの順序を軽く見たくない。人が自分の話を出せるかどうかは、本人の練習量だけでなく、相手の初手にも左右される。
アキ:ケンゴさんの言うことも分かる。ただ、それだと「いい相手に当たった運の話」になっちゃうよ。この人が次に同じことをできる根拠が残らないんだよね。
ケンゴ:……いや、残る。相手の初手が来たとき、それを受け取って自分の話に変換できる人と、できない人がいる。半年前のこの方なら、「そんなことないです」で終わっていただろう。震えた話を出せたのは、その変換ができるようになったからだ。私が言いたいのは、練習の成果が出た場所は相手が手を開いた場面だったということだ。運と練習が、両方あったと私は思う。
アキ:……あー。それなら分かる。うん、私の方が狭かった。両方だね。
サキ:私からも一つ、生活の側から申し上げてよいですか。
アキ:お願いします。
サキ:この数分は、仕事の途中に起きたことですよね。金曜の夜を空けて、待ち合わせて、一時間半座ったわけではありません。書類を届けに行った、そのついでの数分です。私はここが大事だと思っているんですよね。
ケンゴ:時間を捻出していないということか。
サキ:はい。人に話を聞いてもらう時間を生活の外に確保しようとすると、どうしても重くなります。約束して、予定を空けて、出かけていく。それだけでもう、見返りを期待してしまうんですよね。でもこの数分には、準備がありません。だから帳簿もつかないんです。
アキ:帳簿がつかない。シオンさんが言ってたやつだ。
サキ:ええ。第三章でシオンさんが「帳簿はいつか閉じてもよい」とおっしゃいましたが、この方は閉じたのではなく、帳簿の要らない場所を一つ見つけたのだと思います。順序が違いますが、結果として同じところに出ていますね。
シオン:……その通りかもしれない。
アキ:シオンさん。
シオン:私は空のことを考えていた。この方は同じ空を、五月からずっと見ていたはずだ。八月の空も、九月の空も、頭の上にあった。それが十月になってはじめて、「高い」と感じられている。空が変わったのだろうか。それとも上を見る余裕ができたのだろうか。おそらく、どちらもだろう。
サキ:どちらもですね。
シオン:不公平を数えていたころ、この方の視線はたぶん膝のあたりにあった。数えるという行為は下を向かせる。書類も、スマホの画面も、帳簿も、すべて手元にある。上を見るには、手元から目を離さなければならない。それはたった数秒のことだが、数えている人にその数秒がなかったのだ。
アキ:……缶コーヒーの横の蟻も見てるんだよね。それも下だけど、これは数えてる下じゃないよ。
シオン:そうだ。同じ下を向いていても、蟻を見る目と帳簿を見る目は違う。この方は蟻を見て、それから空を見た。順番として、私はそれを美しいと思う。
ケンゴ:私は最後に、実務として一点だけ残したい。この数分は偶然に近い形で起きたが、偶然を待つ必要はない。現場に書類を届ける機会は、これからも繰り返し発生する。相談者はその都度その都度、数分の会話が生まれる場所に立つ職業に就いている。これは恵まれた条件だと私は考える。
アキ:たしかに。事務だけど、外に出る仕事なんだよね。
ケンゴ:そうだ。聞かれる機会を増やすという第三章の提案は、この方の場合新しく人を探すことではなかった。すでに仕事の中にあった機会に気づくことだった。私の当初の提案より現実的で軽い解が、本人の生活の中に用意されていた。
サキ:それはいい終わり方ですね。
アキ:うん。じゃあ、私が最後に一個だけ言うね。
サキ:どうぞ。
アキ:この人たぶん、また金曜に友達と会うと思う。それでいいと思うんだよ。あの人は聞かない人だけど、それでも専門学校からの友達なんだよね。ここが変わるかは分からないし、変わらなくてもいい。この人にはもう、別の場所に数分がある。一人の相手が全部を持ってなくていいって、そういうことだと思う。
自分に問いかけるロードマップ
- その数分のあいだ、あなたは何回時計を見ましたか。おそらく一度も見ていないと思います。それが答えです。
- 「そんなことないです」で終わらせず、震えた話を出せたのはなぜだと思いますか。相手のせいですか、あなたの変化ですか。それとも両方ですか。
- 空が高いと感じたのは、今年で何度目ですか。去年の十月のことを覚えていますか。
- 今週、あなたの仕事の中に数分の立ち話が生まれ得る場面はいくつありますか。数えてみてください。これは数えていい帳簿です。
- 次に金曜の誘いが来たとき、あなたはどんな気持ちで返信すると思いますか。八月のあの昼休みと、同じ指の止まり方でしょうか。
本日の羅針盤
アキの羅針盤──八月の十二分は、疲れたけれど無駄ではありませんでした。あれは練習です。申請してでも自分の話を出した経験があったから、十月に、誰にも頼まれないうちに震えた話を出せました。楽だったのは相手が通りすがりだったからではなく、あなたが自分から出せたからです。順番が変わったのです。
ケンゴの羅針盤──あなたが得たものは運と練習の両方です。相手が先に手を開いた場面で、それを受け取って自分の話に変換できた。半年前にはできなかったことだと私は考えます。そして聞かれる機会を増やすという課題は、新しい人間関係を探すことではなく、すでにあなたの仕事の中にある機会に気づくことで達成されました。書類はこれからも届けに行くことになります。
サキの羅針盤──あの数分に準備がなかったこと、生活の途中で起きたことが、いちばん大きな意味を持っています。時間を空けて出かけていく会話には、どうしても見返りの期待が乗ります。ついでの数分には、それが乗りません。帳簿がつかない場所を、あなたは一つ見つけました。
シオンの羅針盤──数えるという行為は、人に下を向かせる。手元から目を離すのに必要なのは、たった数秒だ。あなたはその数秒を取り戻し、蟻を見て、それから空を見た。空が変わったのか、あなたが変わったのか、決めなくてよい。おそらくどちらもだ。
以上をもって、本件を結びます。読者のみなさまにも今週のどこか、数えないでいられる数分が訪れることを願っています。




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