なぜ些細な言い争いが「土下座」まで発展するのか?現代の職場の息苦しさの正体

番外編 ―― 誰も、あの言い争いの中身を覚えていない

私は地方の運送会社で働く、三十代の事務員だ。あの朝のことを、社員の誰もが話す。土下座のこと、父親の声、床の冷たさ。けれど不思議なことに、そもそもの発端――ベテランのAさんと二年目のBさんが、何をめぐって言い争ったのか。その中身を正確に言える人は、社内に一人もいない。荷積みの段取り、というだけだ。言葉の応酬の何が引き金だったのか。誰の物言いが、どちらを刺したのか。当事者以外、誰も知らない。私たちが覚えているのは、結果として起きた「異様な出来事」だけだった。

よりみちナビゲーターの対話

ケンゴ:本題に入る前にまず一つ、はっきりさせておきたい。「発端の中身が誰にも分からない」という、この事務員の指摘は鋭い。傷害という結果と、土下座という異様な光景ばかりが記憶に残り、そもそも二人の間に何があったのかが、すっぽり抜け落ちている。現代の職場のトラブルは、たいていこの形をとる。原因の検証より、結果の処理が先に立つ。

アキ:それ、あるよね。私も前に似た場面を見たことがあって。何が起きたかより、「誰が悪者か」を早く決めたがる空気があるんだよね。ベテランが手を出したなら、はい加害者確定みたいな。でもさ、二年目の子の言い方がどうだったかって、たぶん誰もちゃんと聞いてない。聞いたら「被害者を責めるのか」って言われそうで、みんな黙ってる。それも息苦しさの一つだと思う。

ケンゴ:アキの言う通りだ。ただ、ここは慎重に言葉を選びたい。「女性社員の物言いに挑発があったかもしれない」という問いは、扱いを誤ると被害者責任論になる。手を出したことの非は、どんな挑発があっても正当化されない。それは動かない。

アキ:うん、それは私もそう思う。手を出したらアウト、それは絶対。でもね、ケンゴさん。「非がある/ない」の二択で全部を裁くと、その手前にあったはずの、二人の関係の疲れみたいなものが見えなくなっちゃうんだよ。たぶん、言い争いはあの朝だけの話じゃない。ずっと溜まってた何かが、荷積みの段取りっていう小さいことで爆発しただけ。

サキ:アキさんの言う「溜まっていた何か」、私もそこだと思うんです。五十代のベテランの方が、二年目の若い方に日々どう接していたのか。若い方は、その職場でどれくらい安心して物を言えていたのか。荷物の積み方一つで大人が手を出すところまで行くって、そこに至るまでの毎日が、きっと相当に張り詰めていたはずなんです。生活の場としての職場が、もう限界だったのかもしれません。

ケンゴ:それは同意する。世代の断絶という構造もある。私のような氷河期世代のベテランは、「見て覚えろ」「理不尽でも飲み込め」で育った。だが今の二十代は、理不尽を理不尽と名指す言葉を持っている。それは正しい進歩かもしれない。だが、その二つの規範が同じ倉庫で衝突したとき、通訳する者がいない。ベテランは「なめられた」と感じ、若手は「威圧された」と感じる。同じ出来事をまったく違う言語で受け取っている。

サキ:通訳する人が、いない。……その空白に、今回は「親」が入ってきたんですね。

息苦しさの正体 ―― なぜ「親」が倉庫に来たのか

アキ:私、最初にこの話を聞いたとき正直ぞっとしたんだよね。二十七歳の――ええと、二年目の社会人の揉め事に、親が会社に電話して、土下座させるまで帰らないって。それ、会社の外の常識から見たら、めちゃくちゃ異様じゃない?

ケンゴ:異様だ。だがそれを、「非常識な親」の一言で片づけたくない。なぜ親が出てこざるを得なかったのか。そこにこそこの職場の――いや、現代の職場の息苦しさが表れている。

アキ:……というと?

ケンゴ:考えてみてほしい。傷を負った二年目の社員が、なぜ会社の誰かではなくまず親に写真を送ったのか。それは社内に「安心して駆け込める相手」がいなかったからではないか。相談窓口、信頼できる先輩、話を聞いてくれる上司。そのどれも機能していると感じられなかったから、彼女は会社の外にいる、たった一人の味方に頼った。親が割って入ったのは、会社が守ってくれるという信頼がそこになかったことの裏返しだ。

サキ:……胸が痛いですね。会社の中に、隣に座って話を聞いてくれる人が一人でもいたら。親御さんが乗り込んでくる前に、違う道があったのかもしれない。守られていないと感じている人が身近な家族にすがるのは、生活者としてとても自然なことです。

アキ:そっか……。異様なのは親じゃなくて、親を呼ばせるまで誰も彼女の隣にいなかった職場のほうかもしれない。

ケンゴ:そういうことだ。ただし――ここは分けて言う。親が味方になること自体は自然だ。だが、土下座を強要するのは別の問題だ。守るための行動が、いつのまにか別の暴力になっている。息苦しさはこうして連鎖する。威圧されたと感じた者を守ろうとして、今度は別の誰かを威圧する。この負の連鎖こそ、現代の職場を覆う空気の正体だと私は思う。

シオン:ところで――誰も発端の中身を覚えていない、というところに私は戻りたい。

荷積みの段取り。おそらく、本当に些細なことだったのだろう。棚の右か左か、その程度の。だが人は些細なことで争っているとき、実は些細な地点で争ってなどいない。積まれているのは荷物ではない。長い年月をかけて一人ひとりが抱えてきた、「認められたい」「軽んじられたくない」という目に見えない荷だ。

ベテランの彼は五十を過ぎて、若い者に段取りを問われることに自分の来し方が否定されたように感じたのかもしれない。若い彼女は二年目にして、まだ半人前として扱われることにうんざりしていたのかもしれない。二人が本当にぶつけ合っていたのは、それぞれの人生の重さだ。

息苦しい職場とは、荷物の置き場所の話が、人生の重さの話にすり替わってしまう場所のことではないだろうか。そしてその重さを降ろせる場所が、どこにもない。だから人は写真を撮り、親を呼び、床に膝をつく。降ろせなかった重さが、いちばん歪んだ形で噴き出してしまう。

アキ:……なんか、静かになっちゃったね。でも、そうだよね。あの言い争いの中身を誰も覚えてないのは、たぶん中身なんて最初からなかったからだ。あったのはみんなが抱えてた、降ろせない重さだけ。

自分に問いかけるロードマップ

  • 職場のトラブルを、「誰が悪いか」の二択で裁こうとしていないか。その手前の「溜まっていた何か」を見ようとしているか。
  • 手を出した非は動かないという一線を保ちつつ、それでもなお、二人がそこに至った関係の疲れに目を向けられているか。
  • 傷ついた人がまず社外の家族に頼ったという事実を、「非常識」ではなく「社内に安心がなかった証」として読めているか。
  • あなたの職場に、荷物の話を荷物の話のまま終わらせられる、そんな安全な場はあるか。重さを降ろせる場所はあるか。

本日の羅針盤

番外編の結論も、一本化しません。四つの視座を残します。

ケンゴの視座からは、息苦しさの正体は「規範の断絶と、通訳者の不在」だということ。異なる世代が異なる言語で同じ出来事を受け取り、それを翻訳する仕組みが職場にない。そして守ろうとする行動が別の暴力に転じる連鎖こそ、現代の職場を覆う空気です。

アキの視座からは、「誰が悪者か」を急いで決める空気そのものが、息苦しさだということ。手を出した非は動かない。だがその手前の疲れを、二択が覆い隠してしまいます。

サキの視座からは、傷ついた人の隣に、社内の誰もいなかったことこそが問題だということ。親を呼ばせたのは、職場の安心の欠如です。

シオンの視座からは、些細な争いの中身が思い出せないのは、争いの正体が「降ろせない人生の重さ」だったからだということ。息苦しい職場とは、その重さを降ろす場所がどこにもない場所を指すのかもしれません。

倫理的な問いに、きれいな正解はありません。手を出した非は残る。挑発の有無は当事者にしか分からない。親の介入は異様であり、同時に切実でもある。ただ一つ言えるのは、この一件は「加害者を罰すれば終わる話」でも「非常識な親の話」でもなく、重さを降ろせなくなった職場そのものの話だ、ということです。

もし今、あなた自身が職場にこの息苦しさを感じているなら。 一人で抱え込まず、社内外の相談窓口や、必要に応じて産業医・カウンセリングなど専門機関への相談もご検討ください。重さは一人で降ろすものではありません。

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