第三章 ― 隣の人を、赦すためではなく
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:実務の話はほぼ尽きた。記録を取り、仕組みで縛る。ここまでやれば、事務所は少しずつ回り始めるはずだ。──だが、私はひとつ気になっていることがある。あなたは何度も「辞めさせたいわけではない」と書いた。実務家の私から見れば、それだけ実害を出す人間なら退場してもらうのが最も合理的だ。なのにあなたは、それを望んでいない。なぜだ、と。
アキ:それ、私も思った。でもね、私はその「望まない気持ち」のほうが、この人の本体だと思うんだ。合理性で言えば、切ればいい。でも切れない。切りたくない。……それって弱さじゃなくて、この人がまだ、隣の人を人として見てるってことでしょ。すり減りながらも憎み切れてない。私はそこ、守りたいなあ。
サキ:私も同じことを感じていました。何年も同じ島に座って、同じ夕暮れを見てきた相手なんですよね。腹は立つ、けれどこの人がいなくなった事務所を想像すると、それはそれで寂しい。……そういう割り切れない情って、生活の中にはいくらでもあるんです。私はそれを、無理に合理性で片付けなくていいと思っています。
ケンゴ:……なるほど。合理だけでは説明のつかない秤が、あなたの中にはあるということか。それを否定はしない。むしろそういう人間だからこそ、事務所を裏から支え続けてこられたのだろう。
シオン:──話を少しだけ、横へずらしてもいいだろうか。
アキ:あ、シオンさん。
シオン:あなたがたは「同僚をどうするか」をずっと話している。辞めさせるか、縛るか、記録するか。けれど私が思うのは、これはもしかすると同僚の話ではないのかもしれない、ということだ。
缶コーヒーを片手に一人で残業する夜、いったい誰に見ていてほしかったのだろう。彼がサボることそのものより、「頑張っている自分を誰も見ていない」というその暗がりのほうが、あなたを削っていたのではないだろうか。
サキ:……ああ。
シオン:彼が給与を漏らしたことに、あなたは強く傷ついた。守秘義務の問題としても正しい怒りだ。けれど、それだけではない。「自分の値打ちを他人が勝手に値踏みして触れ回る」ことへの痛みだったのではないか。あなたは正当に扱われたいのだ。記録も、ルールも、その根っこにあるのはたぶん、「私はちゃんとやっている」という静かな叫びなのだと思う。
ケンゴ:……否定できないな。仕組みはそのための道具にすぎない。
シオン:道具は要る。ケンゴの言うことは正しい。ただ、道具を手にしたあとで、あなたに一つだけ問いたい。彼を縛る仕組みが整ったとして――そのときあなたはようやく、自分で自分を「よくやっている」と認めてやれるだろうか。それともまた、次の誰かの評価を待つのだろうか。縁というものは、切れてもまた別の形で似た相手を連れてくる。だから私は彼を裁くことより、あなたがあなた自身と結び直すことのほうを、静かに願っている。
自分に問いかけるロードマップ
- 私が本当に痛かったのは「彼のサボり」だろうか、それとも「頑張りを誰にも見られていない孤独」だろうか。
- 給与を漏らされた怒りの奥に、「正当に扱われたい」という願いは隠れていないか。
- 仕組みが整ったあと、私は自分の働きを、他人の評価を待たずに認めてやれるだろうか。
- 私が守りたいのは事務所の秩序か、彼との関係か、それとも――すり減らずに働ける私自身か。
本日の羅針盤
三章を通じて、道は幾筋も見えてきました。無理に一本へ束ねません。
ケンゴが敷いたのは、実務の道です。感情を紙に預け、告発ではなく記録で語り、個人ではなく仕組みで縛る。これは明日から着手できる、最も確実な足場です。
サキとアキが灯し続けたのは、あなたの割り切れなさを肯定する道です。「辞めさせたいわけではない」という一言を弱さではなく、あなたがまだ人を人として見ている証として受け取ること。すり減りながらも憎み切れない、その情の温度を恥じる必要はありません。
そしてシオンが横へずらしてくれたのは、いちばん奥の道でした。この問題は彼をどうするかであると同時に、あなたが「ちゃんとやっている自分」を、誰かの評価を待たずに認められるかどうかの問いでもある、と。
だから、最後に一つだけ。記録を取り始めた夜、缶コーヒーの缶を握ったその手で、どうか自分の肩を一度だけ叩いてやってください。「今日もよく回した」と。他人が値踏みする前に、あなたが自分の値打ちを知っていること。それが隣の席のざわめきに揺らがない、強固な盾になります。
事務所はたぶん、少しずつ変わります。けれどそれが変わりきる前でも、あなたは十分にやっている。この記事がその事実を思い出すための、小さな置き手紙になれば幸いです。
もし記録や交渉を進める過程で心身の消耗が続くようであれば、労働相談窓口や産業保健の専門機関への相談も、どうか選択肢に入れてください。仕組みを整えることと同じくらい、あなたが休むことも大切な仕事のうちです。




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