番外編 ― 缶コーヒーが二本、机の上に
梅雨の走りの、湿った金曜だった。
私はあの日から、三行の記録を続けていた。督促が来た、手配が抜けた、対応:私。それだけの、素っ気ない箇条書き。社長には繁忙期の相談のふりをして、支払い管理の仕組みを見直したいと切り出した。全社共通の守秘ルールも、私用端末の扱いも、彼を名指しせずに紙に落とし込んだ。社長は「なるほど、これはまずいな」と、自分で気づいたような顔をした。ケンゴ氏の言った通りだった。
事務所は、劇的には変わらない。彼のスマホは相変わらず光っている。けれど督促の電話は少し減った。ルールという名の細い縄が、彼の手首に一巻きされた気配がたしかにあった。
その金曜、私はいつものように一人で残業していた。夏場の空調のこもった匂いと、蛍光灯の低い唸り。誰もいないはずの事務所で、背後の給湯室から、ことんと音がした。
振り向くと彼が立っていた。手に、缶コーヒーを二本。
「……これ」
一本を、私の机の端に置いた。冷たい、微糖のやつ。私がいつも自販機で買うのと同じ銘柄だ。彼がそれを知っていたことに、私は少し驚いた。
彼は目を合わせなかった。窓の外の、街灯の滲んだ雨を見ていた。
「あのさ。……最近、あれだろ。俺のせいで、色々。書いてんの、知ってる」
心臓が跳ねた。ばれていた。
「悪かった、とは言わねえよ。言えねえし」彼はプルタブを引いた。ぷしゅ、という間の抜けた音。「ただ、あんたがさ。毎晩ここで一人でやってんの、俺、見てたんだ。見てたけど、見ないふりしてた。……そのほうが、楽だったから」
雨の音が、少し強くなった。
「昇給の件、悪かったな。あれは俺が腐ってただけだ。あんたの働きに文句なんかねえよ。ほんとは」
それだけ言うと、彼は自分の缶を持ちぎこちなく席へ戻っていった。背中がいつもより、少し丸く見えた。
私は机の端の缶を握った。冷たかった。缶の表面の水滴が、指のあいだを伝った。
謝罪ではない。和解でもない。明日もまた彼のスマホは光るだろうし、督促の電話は鳴るだろう。何も解決していない。
けれど――「見てた」と彼は言った。
誰も見ていないと思っていた夜を、隣のこの男は見ていたのだ。見て見ぬふりをするために見ていた。それは赦せることではないけれど、私の缶コーヒーの銘柄を覚えているくらいには、彼も私を見ていたのだった。
私は缶のプルタブを引いた。ぷしゅ、と同じ音がした。
ひとくち飲んだ微糖は、いつもより少しだけ甘い気がした。
よりみちナビゲーターの余韻
アキ:……あー、これだよ。私、これが聞きたかったんだ。「悪かったとは言えねえ」って言いながら缶コーヒー置いてくの、不器用すぎて泣ける。人ってさ、正面から謝れないぶんをこういうところに滲ませるんだよね。
サキ:銘柄を覚えていた、というのが効きますね。……ずっと見ていたという証拠が、そこに全部詰まっている。憎み切れなかった相手にも、ちゃんと理由があったんだなって。生活の中の赦しって、たぶんこういう缶コーヒー一本くらいの大きさなんですよ。
ケンゴ:私は実務家だから、これで問題が解決したとは言わない。事務所の構造課題は残っている。記録も続けるべきだ。──ただ、認めよう。仕組みが人を縛るのと同じくらい、こういう一言が人を動かすことがある。彼が「見てた」と言えたのは、あなたが記録という形で静かに事務所へ「見ているぞ」という圧を返したからかもしれない。無関係ではないと思う。
シオン:──彼は赦しを乞わなかった。あなたも赦さなかった。それでいい。人と人は赦し合わずとも、隣に座り続けることができる。この夜、机の上に缶が二本並んだ。ただそれだけのことだ。けれど一人で握るはずだった缶が二本になった、その一本ぶんの重みを、あなたはもう知っている。……縁とはたぶん、そういうものだ。




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