パートナーとの死別から新しい恋愛へ。罪悪感を「共に生きる力」に変える羅針盤

【番外編】ただいま、と言えた夜

初めての食事を終えて私はアパートに帰ってきた。玄関の鍵を開けながら、いつものように「ただいま」と言おうとして、少しだけ言葉に詰まった。半年前、この言葉には返事があった。

それでも、私は言った。「ただいま」。

靴を脱いで、リビングの電気をつける。食事は思っていたより、ずっと自然だった。あの人は話をよく聞いてくれて、笑うと本当に目尻に皺が寄って、私は久しぶりに時間を忘れて笑った。楽しかった。楽しかったのに鍵を開けた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだのはどうしてだろう。

私は食器棚の前に立った。彼のマグカップに、今日はいつもより長く目を留めた。「行ってきたよ。……楽しかった」。声に出して、そう報告した。責められるかもしれないと思っていた。でも口に出してみると、不思議と後ろめたさは薄かった。

そのとき窓のほうで、かたんと小さな音がした。

見ると、少し開けていた窓から夜風が入って、カーテンをふわりと膨らませていた。ただの風だ。分かっている。でも、その風は妙に暖かくて、まるで初夏の夕暮れみたいな匂いがした。彼が好きだった季節だ。二人でよく、この時間に散歩に出た。

風はカーテンを一度膨らませて、それからゆっくりと元に戻った。部屋がまた、静かになる。

私はなぜだか泣いていた。悲しくてではなく。「怒ってないんだね」。そう思ったら、涙が止まらなくなった。マグカップはいつもと同じ場所に、ただ静かにそこにあった。


よりみちナビゲーターの対話

アキ:……この場面、読んでてこっちまで泣いちゃった。「ただいま」って言葉に詰まったこと、でもちゃんと言えたこと。それだけでもう十分すぎるくらい、あなたは頑張ったよ。

アキ:窓の風のこと、私は「ただの風だよ」なんて言いたくない。あなたが「怒ってないんだね」って感じたなら、それがあなたにとっての本当だから。理由なんていらない。あなたの心が受け取ったものが、そのまま答えなんだよ。

サキ:楽しかったのに、鍵を開けた瞬間に胸が縮んだ──この感覚、すごく分かります。ですよね。楽しい時間を過ごせた自分に、ふっと申し訳なさが追いついてくる。でもそれはあなたが薄情だからじゃなくて、両方を大事にしているからこそ起きることなんです。

サキ:初夏の匂いのする風。彼が好きだった季節。私、思うんです。それはきっと、あなたの記憶と今日という日が、風の中でそっと手をつないだ瞬間だったんじゃないでしょうか。

ケンゴ:私は風が本当に彼からの返事だったのかどうか、それを問うつもりはない。科学的にどうかという話には意味がない。大事なのは、あなたがその風を「怒っていない」と受け取れたことだ。

ケンゴ:半年前のあなたなら、同じ風が吹いても「責められている」と感じたかもしれない。同じ出来事を、あなたは違う形で受け取れるようになった。それはあなた自身が回復し、前を向いたという確かな証拠だ。風が変わったのではない。あなたが変わったのだと、私は思う。

サキ:ケンゴさんの言う「あなたが変わった」というの、私もその通りだと思います。ただ──風が彼からの返事だったのか、あなた自身の変化だったのか。私はその二つを、分けなくてもいいんじゃないかと思うんです。彼を想う心があなたを変えたなら、それはもう、彼と一緒に受け取った答えですから。

ケンゴ:……なるほど。それは私にない見方だ。彼への想いがあなた自身の変化を育てた。ならば風もあなたの変化も、同じ一つのものだと──サキの言う通りかもしれない。

シオン:あなたは「怒ってないんだね」と感じ泣いた。悲しくてではなく。私はその涙の意味を思う。

シオン:許しとは、誰かが与えるものだと人は考える。だが本当は、許されたと感じられる心の準備が受け取る側に整ったとき、訪れるものではないだろうか。
あなたは今夜、彼の許しを受け取れるだけの場所に、自分の足でたどり着いた。風はきっと、ずっと前から吹いていた。あなたがそれを受け取れたのが、その夜だったのかもしれない。

自分に問いかけるロードマップ

  • 「ただいま」と言えたとき、返事がないと分かっていながらそれでも口に出した自分を、あなたはどう思うだろう。その小さな勇気に、気づいているだろうか。
  • 半年前の自分なら、窓の風をどう受け取っていただろう。今のあなたとの違いの中に、あなたが歩いてきた距離が見えるかもしれない。
  • 「怒ってないんだね」と感じて流した涙は、悲しみの涙とはどう違っただろう。その違いをあなたはこれからの日々で、大切にしていけるだろうか。

本日の羅針盤

返事のない「ただいま」を言えたこと。楽しかった一日を、彼のマグカップに素直に報告できたこと。そして夜風を「怒っていない」と受け取れたこと──この一連の出来事は、あなたが誰かに背中を押されたのではなく、自分自身で「許されていい」と思える場所まで歩いてきた、その到達点です。

風が本当に彼からの返事だったのか、あなた自身の心の変化だったのか。その答えを一つに決める必要はありません。彼を想う気持ちがあなたを回復させたのなら、その風はもう、あなたと彼が一緒に受け取った返事なのです。

これから先も楽しい時間の後、ふっと胸の縮む夜がきっとあります。けれど今夜のあなたは、その痛みの向こうに暖かい風を受け取れることを知りました。もう大丈夫、とは言いません。でも、あなたはちゃんと受け取れる人になった。それだけは確かです。

あなたの「ただいま」に、これからも形を変えたやさしい返事が届きますように。

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