第三章 ―痛みのない朝へ
投函の日
郵便局の自動ドアが開くと、消毒液と紙の匂いが混じった空気が流れてきた。私は封筒を一通、鞄から取り出した。中にはたった数行の退職届が入っている。日付、退職希望日、「健康上の理由により」の一文、そして自分の名前。書き直しは三回した。長く書きたくなる衝動を、そのたびに削った。
窓口で「内容証明でお願いします」と言うと、職員は慣れた手つきで枚数を確認し、配達証明の控えを差し出した。判が押される、その乾いた音を私は妙にはっきりと覚えている。控えを財布の内側に折りたたんでしまうと、腰の奥でいつもの鈍い痛みがひとつ、脈打った。だが不思議と、いつもよりそれが遠くに感じられた。
外に出ると、九月の終わりの風がまだ熱を残したアスファルトの上を渡っていた。私は所長の顔を思い浮かべた。あの「意味ないよ」という言葉。もうあれに、言い返す必要はない。紙が私の代わりに事実を告げてくれる。
見送る声
サキ:投函できたんですね。震える手で、ちゃんとポストまで運んだ。私はそれだけで十分すごいことだと思うんです。正しい手続きを知っていても、実際に足を運べる人はそう多くない。あなたは明日の朝の自分を守る一歩を、自分の意思で踏み出した。
ケンゴ:よくやったと思う。ここから先、会社が何を言おうと、あなたの立場は書面が支えてくれる。引き継ぎのメモは、余力のある範囲でいい。全部を背負う必要はない。あなたが去ったあとの職場を回すのは経営者の仕事であって、あなたの腰の仕事ではない。そこを取り違えなければあなたはもう、大丈夫だと思う。
サキ:ケンゴさん、めずらしく優しい言い方ですね。
ケンゴ:……事実を言っているだけだ。
シオン:あなたは今日、判の音を覚えていると書いた。人は去り際に、なぜかそういう小さな音を記憶するものだ。それはきっと、ひとつの季節が閉じる音なのだろう。腰の痛みが遠くに感じられたのは、体がようやく緊張を手放しはじめたからかもしれない。ほどけた糸の先に、あなたはまだ見ぬ朝を持っている。急がなくていい。ただその朝は、きっと痛みの少ない朝であるように。
自分に問いかけるロードマップ
- 私は今日、何を「手放す」ことができただろう。言い返すこと、認めてもらおうとすること、そのどれを置いてこられたか。
- 引き継ぎを「全部やらねば」と思っていないか。私の責任の範囲は、本当はどこまでなのか。
- 判の音を覚えているように、これから始まる日々の中で、私はどんな小さな音を新しく聴いていきたいだろう。
本日の羅針盤
三章を通して、私たちは一人の生活者と歩いてきた。第一章で「退職は許可制ではない」という土台を据え、第二章で「内容証明」という具体の盾を渡し、そしてこの章でその盾を実際に手にして外へ出る朝を描いた。
ケンゴが最後に示したのは、責任の範囲を取り違えないこと。あなたの腰は、会社の人手不足を埋めるための道具ではない。
サキが照らしたのは、正しさを知ることと実際に足を運ぶことのあいだにある、大きな隔たり。あなたはその隔たりを、自分の意思で越えた。そしてシオンが残したのは、去ることは断つのではなくほどくことだという、静かな視座だ。
答えは一本ではない。書面で淡々と進める道も、診断書を前面に出す道も、第三者の力を借りる道もある。どれを選ぶかは明日の朝、あなたが痛みなく起き上がれることを基準にすればいい。
会社が離職票の交付を渋る、退職を認めないと言い張り続けるといった具体的なトラブルが起きた場合は、管轄の労働基準監督署の総合労働相談コーナーなどで無料の助言が受けられます。腰の状態が悪化するようであれば、何よりもまず医療機関を優先してください。手続きも体調も、人で抱え込まず、必要なときは専門機関への相談もご検討ください。
あなたが握っていたのは退職願ではなく、次の季節への切符だったのかもしれません。




コメント