第三章──家の中の「もう一人の大人」と、二人の子どもをめぐる日々の運用について
プロローグ
土曜の朝、夫がリビングのソファでスマホを見ている。子どもたちは床でブロックを散らかしている。私は台所で二杯目のコーヒーを淹れながら、昨夜のことを話そうかどうか迷っている。
昨日の夕方、私はまた上の子に強く言ってしまった。声を荒げたあと、別室に逃げて五分間、洗面所で深呼吸をした。夫はその時間、まだ帰ってきていなかった。夜、帰宅した夫に「今日、ちょっとしんどかった」と言いかけて、やめた。「子どもなんてそんなもんだよ」と返ってきそうな気がしたから。
夫は悪い人ではない。むしろ、子どもをかわいがっている。週末は積極的に公園にも連れていく。ただ平日の夕方、五回目で声が低くなるあの瞬間の温度を共有する言葉を、私たちはまだ持っていない。
土曜の朝のコーヒーの湯気越しに、夫の後頭部を見ながら私は思う。この人に、どこから話せばいいのだろう。
「大げさだよ」と言われないための、伝え方の設計
サキ: 第二章で、警報の音量を「家族ではなく、評価をしない他人に預けてください」とお伝えしました。これは、家族に話さなくていいというわけではないんです。家族に話すには、別の準備が要るという意味です。
アキ: わかる。パートナーって距離が近すぎて、相談相手としては難しい部分があるよね。「相談」のつもりで話したのに、「解決策」を返されたり、「自分も大変」って話に持っていかれたり。話したあとにもっと孤独になることがある。
ケンゴ: これは私の領域だが──夫側の視点からも、少し言わせてほしい。平日の夕方の台所に立っていない人間にとって、「五回目で声が低くなる」という具体は、想像力の外側にあることが多い。悪意ではなく、単に情報が届いていない。だから「しんどい」という抽象で伝わらないことが多いんだ。
サキ: ケンゴさんのおっしゃること、私もそう思います。ただ──伝え方を工夫するのはいつも妻側、という構図にしてしまうと、それ自体が新しい負担になりますよね。「察してくれない夫にわかってもらうための話法を、また私が学ばないといけないの」と。
ケンゴ: ……それは確かにその通りだ。私は今、夫側の理解の鈍さを妻側の伝達技術で補えと言いかけていた。撤回する。
アキ: あ、ケンゴが撤回した。珍しい。
ケンゴ: 撤回するときは、撤回する。
サキ: ふふ。ただ、現実問題として、明日の朝のコーヒーは来ますよね。だから、こう考えたいんです。「夫にわかってもらう」をゴールにしない。「今日の自分の状態を、声に出して家の中に置く」をゴールにする。
たとえば土曜の朝、コーヒーを淹れながらこう言ってみる。「昨日の夕方、上の子に強く言っちゃって、自分でしんどかった。解決策はいらないんだけど聞いてくれる?」と。
最初の一文で「事実」、二文目で「自分の状態」、三文目で「相手への依頼」。これは夫を変えるための技術ではなく、自分の状態を家の中で消さないための自分のための作法です。
アキ: あー、それいい。「解決策はいらないんだけど」って、最初に言っちゃうの。あれ、本当に効くよね。男の人って悪気なく解決モードに入る人が多いから、最初に交通整理しちゃう感じ。
上の子と下の子、関わり方の濃淡について
サキ: ここからはもうひとつのテーマに入りますね。お子さんお二人について。
上のお子さんは療育に通っておられて、発達がゆっくりであることがすでに「見える」状態にある。下のお子さんは言葉が出ていないけれど、「もう少し様子を見ましょう」と言われた経過観察の状態。
このお二人に対する関わり方がお母さんの中で微妙に違ってくるのは、ある意味自然なことなんです。
ケンゴ: その「自然さ」を、もう少し言語化したい。上の子に対しては、療育という外部の専門家が並走している。お母さんは「一人で抱えていない」という感覚を、わずかでも持てる構造になっている。一方、下の子に対してはまだ専門家との接点がなく、「私だけが心配している」状態に置かれている。これは心理的な負荷の質が違う。
サキ: ええ。そしてここに、もうひとつの落とし穴があるんです。上のお子さんに対しては、療育の先生から「こう関わってください」というガイドがある。だから関わり方に「正解」のようなものが見えている。一方、下のお子さんに対しては「様子を見る」しかなくて、関わり方の手がかりがない。だからつい、「言葉を引き出そう」と力が入ってしまったり、逆に「何もできない」と無力感に襲われたり、振れ幅が大きくなる。
アキ: あーそれ、しんどいやつだ。上の子は「やることが見えてる」けど、下の子は「何が正解かわからない」状態で、両方を同じ脳みそで処理しないといけない。これ、脳の負荷がすごいよ。
シオン: ……ふと思ったのだが。「様子を見る」という言葉は、医療や行政の側から発せられるとき「特に対応は不要」と受け取られがちだが、本来は「観察し続けてください」という、能動的な依頼ではないだろうか。お母さんはその依頼を、たった一人で引き受けている。それは見守りの孤独、とでも呼べるものではないか。
サキ: ……シオンさんの言葉、刺さりますね。「様子を見る」を、一人で引き受けている。本当にその通りだと思います。
だから下のお子さんについても、療育に通っていなくても、定期的に第三者と「様子の共有」ができる場をひとつ持っておくことをお勧めしたいんです。たとえば自治体の発達相談、幼稚園の担任の先生との面談を年に数回設定する、かかりつけの小児科で半年に一度、発達面の話題を出してみる。療育に通うこととは別に、「見守りを一人で引き受けない」ための工夫です。
上の子に強く言ってしまうことについて、もうひとつ
アキ: 相談文を読み返しててちょっと気になったところがあるんだけど、いい?お母さんが「強く言ってしまう」って書いてた相手、よく読むと、上の子の場面が多い気がする。下の子じゃなくて。
サキ: そうですね。それは私も気になっていました。
ケンゴ: 構造的に見れば、説明がつく。上の子は言葉が通じる。だから「言ったのにやらない」という構図が成立する。下の子はまだ言葉が十分でないから、「言ってもわからない」前提で関われる。お母さんの中で、「期待値」の置き場所が違うんだ。
サキ: ええ。そして上のお子さんは、発達がゆっくりだとはいえある程度の言葉のやり取りができる。だからこそ、ご本人の中で「もう幼稚園児だから、これくらいできてほしい」という気持ちと、「でも、発達はゆっくりで療育に通っている」という現実のあいだにねじれが起きる。このねじれの中で、五回目の「なんでやらないの」が出てしまうのではないか、と。
アキ: あ、それ、すごくしんどい構図だね。お母さん自身が「期待していい」のか「期待しちゃいけない」のか、毎日揺れてるってことでしょ?
サキ: はい。そしてこれは、「期待を下げましょう」という話ではないんです。期待を下げるのはお子さんの可能性を狭めることになりかねない。そうではなくて、「期待」と「指示」と「叱責」を、お母さんの中で分けて持っておく、という話で。
たとえば、「片付けてほしい」は期待。「ブロックを箱に入れようね」は指示。「なんでやらないの」は叱責。この三つは似ているようで、ぜんぶ別の動きです。
ケンゴ: 期待は、長期で持つもの。指示は、その場で出すもの。叱責は本来、最後の手段。この順序が疲れていると混ざる。
サキ: ええ。混ざるのはお母さんが悪いからではなく、疲れているから。だから「叱責が出てしまった」ことを、自分の人格の問題にしないでいただきたいんです。それはエネルギー残量の問題であって、あなたという人の問題ではない。
シオン: ……持ち時間の終わりにひとつだけ。子どもは親の「言葉」よりも、親の「在り方」を見ているとよく言われる。だが、私はもう少し違うふうに思っている。子どもが見ているのは親が「失敗したあと、どう立て直すか」だ。完璧な親の像ではなく、立て直す親の姿が子どもの中に残っていく。それは第二章でサキが話していたことと、地続きの話だ。
第三章の置き土産
ひとつ。夫との情報共有は、「わかってもらう」をゴールにしないでください。「今日の自分の状態を、家の中に置く」をゴールにする。「事実・自分の状態・相手への依頼」の三文で、土曜の朝のコーヒーと一緒に置いてみてください。
ふたつ。下のお子さんの「様子を見る」を、一人で引き受けないでください。療育に通っていなくても、自治体の発達相談、幼稚園の担任との面談、かかりつけ小児科での発達相談など、第三者と「様子を共有する場」を複数持っておくことをお勧めします。
みっつ。「期待」「指示」「叱責」を、自分の中で分けてみてください。この三つが混ざるのはあなたが悪いからではなく、エネルギーが減っているから。混ざってしまった日があってもそれは人格の問題ではなく、残量の問題です。
そして、最後に。お子さんは完璧な親を見ているのではありません。立て直す親の姿を見ています。あなたが五分間洗面所で深呼吸をして、リビングに戻ってきたあの瞬間。それはすでに、立て直しの一歩なんです。



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