傘を差した数歩の、その先で
あの相談を書いてから、いくつかの朝が過ぎました。私は結局、いきなり正社員の椅子を探しに行くのはやめました。かわりに駅前の小さな運送会社の、週に四日の仕分けの仕事に応募しました。面接で「ブランクがありますが」と正直に言ったら、五十がらみの所長が「みんな何かしら抱えてるよ」とだけ言って、履歴書を裏返しに置きました。あの裏返された履歴書の音を、私はたぶんずっと覚えている気がします。
初日は、荷物の重さと段ボールの角の匂いで、夕方には腕が上がらなくなりました。でも、次の日も行きました。三日目も。「続かない」と決めつけていた自分が、四日目の朝、まだ布団の中でちゃんと目を覚ましていたことに少しだけ驚いています。
高卒の目標は、まだ何も始めていません。ただ、給料が入ったら、まず高卒認定の過去問を一冊だけ買ってみようと思っています。全部やろうとはもう思っていません。一冊だけ。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:……ねえ、聞いた? 四日目の朝、目が覚めてたって。私、そこ読んで、ちょっと泣きそうになった。あなたが何十年も「私は続かない人間だ」って握りしめてたその手が、四日目の朝、ちょっとだけ開いたんだよ。それってさ、何かを達成したとかじゃなくて、あなたが自分を初めて信じ直し始めた朝なんだと思う。
ケンゴ:所長が履歴書を裏返しに置いたというくだりに、私は目が留まった。それは偶然ではないと思う。この方は過去でなく、これから来る四日間のあなたを見ようとした。そしてあなたは四日間で、その信頼にきちんと応えた。「一冊だけ買う」という決め方も、私は評価する。人はよく、目標を大きくしすぎて折れる。一冊は続けられる大きさだ。良い設計だと思う。
サキ:段ボールの角の匂い、腕が上がらない夕方——その手触りが書けているのが、私はいちばん嬉しいんです。ですよね。頭で考えた「働く」じゃなくて、体で通り抜けた「働いた」になっている。ただ、一つだけお願いがあって。
アキ:うん。
サキ:これから必ず、行けない朝が来ます。腕が痛くて、雨が冷たくて、布団から出られない朝が。そのときどうか、「やっぱり続かない自分だ」に戻らないでほしいんです。一日休むことと続かないことは、まったく別のことですから。休んだ翌日に、また行く。それだけであなたはもう、「続く人」なんです。
ケンゴ:サキの言うことに、私も付け加えたい。……いや。付け加えるのはやめておく。今のあなたに必要なのはこれ以上の助言ではなく、たぶんこの四日間を静かに認めてもらうことだ。だから私は一言だけにする。よくやった、と。
シオン:……裏返された履歴書、と書いていた。私はその一枚をこう思う。あなたはこれまで紙の表——学歴も、職歴も、続かなかった歳月も——それだけが自分の全部だと思ってきたのではないか。だが所長は、それを裏返した。裏には何も書かれていない、白い面がある。人は皆、その白い面を持って生きている。あなたが四日目の朝に見たのは、その白い面のいちばん最初の一行だったかもしれない。何を書くかは、まだ決まっていない。それでいい。決まっていないことは、終わっていないということだ。
自分に問いかけるロードマップ
- 私は「続けられた四日間」を、ちゃんと自分の手柄として数えているか。それとも「まだ四日だけ」と値引きしていないか。
- 必ず来る「行けない朝」を、私はどう迎えると決めておくか。休んだ翌日に、また行く——その一つを今、約束できるか。
- 「一冊だけ買う」の次の「一冊分だけ解く」を、いつ、どのくらいの大きさで自分に許すか。
- 白い面の最初の一行に、私は今どんな言葉を書きたいだろう。
本日の羅針盤
三つの章を通じて、あなたは大きく道を選び直しました。
第一章では、雪解けを待つより今日傘を差せと、二択で立ち尽くす必要はないと確かめました。
第二章では、「続かない自分」を弱点として確定させるのではなく、まず働くという順序の設計として引き受けました。
そして第三章、あなたは実際に四日間を働き、「続かない」という長年の思い込みを、自分の体で静かに裏切ってみせました。
ここから先の羅針盤は、もう私たちが指し示すものではありません。あなた自身が四日目の朝に見つけたものです。
それでも、餞(はなむけ)として一つだけ残します。あなたの価値は履歴書の表に書かれた文字の数では決まりません。裏の白い面にこれから何を、どんな速さで書いていくか。全部を一度に書こうとしなくていい。一冊だけ、一行だけ、一日だけ。その積み重ねが、いつか気づけばあなたにしか書けない一枚になっています。学歴という三文字も、そのとき自然にあなたの手の届くところへ戻ってきているはずです。
働き始めたことで疲れや不安から気持ちが沈む日が続くようなら、それは弱さではなく、体からのごく自然な合図です。前章までにお伝えした「地域若者サポートステーション」に加え、気持ちのつらさが長引くときは、お住まいの自治体の相談窓口や心療内科などの専門機関に頼ることも、どうか選択肢に入れておいてください。一人で背負い込まないことも、続けるための立派な仕組みの一つです。
全三章を終えて
読者のあなたへ。この物語の主人公は、特別に強い人ではありません。ただ、四日目の朝目を覚まし、もう一度、仕事着に袖を通しただけです。もしあなたが今、何か表面に書かれた文字だけで自分を値踏みしているなら、一度その紙を裏返してみてください。白い面は、あなたの足跡が書き進められるのをいつでも待っています。




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