網戸の白い蛾と、彼女がくれた最後の夜
二十年以上、この家に住んでいます。けれど、あんなことは初めてでした。
同僚の彼女が亡くなった、その前の晩のことです。私は台所で洗い物をしていて、ふと窓のほうを見たんです。
網戸に大きな白い蛾がとまっていました。手のひらほどもある、白っぽい羽の。気味が悪くて、布巾を振って追い払いました。けれど、どこにも飛んでいかないんです。少し離れてはまた網戸のおなじ場所に戻ってくる。何度やってもおなじでした。
私は霊的なものなんて、まるで信じない人間です。先祖がどうとか虫の知らせとか、笑い飛ばしてきたほうです。でもそのとき、なぜか彼女の顔が浮かびました。彼女、しばらく体調を崩していて。「もしかして」と、胸の奥がざわついたんです。
翌日、会社に行きました。悲しい知らせはありません。翌々日もありませんでした。ああ思い過ごしだった、よかったと。そう安心していたんです。
その数日後、彼女の訃報が届きました。亡くなったのはあの蛾を見た、まさにその夜だったと聞きました。 頭ではわかっています。気温とか、灯りに寄ってきただけだとか。でも、どうしても偶然だとは思えないんです。彼女が最後にお別れを言いに来てくれた。そうとしか思えなくて。皆さんならこれを、どう感じられますか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ: 読んでいて台所の蛍光灯の白い光と、布巾を振るあなたの手が見えるようでした。気味が悪いと思いながらも、何度も網戸に戻ってくる羽を目で追ってしまった。その夜の説明のつかない胸のざわつき。それはもう、確かにそこにあったものですよね。
ケンゴ: 気持ちはわかる。ただ、僕は事実の側から少し整理しておきたい。大型の蛾が灯火に強く誘引されるのはよく知られた習性だ。一度光源を認識すれば、追い払っても同じ場所に戻る個体は珍しくない。体調を崩した同僚のことを案じていたあなたの心が、その晩の出来事に意味を与えた。順序としては、そういうことだろう。
サキ: ケンゴさんの言うこと、構造としてはわかります。ただ──私は少し違って感じていて。順序が逆でもいいんじゃないかと思うんです。蛾が先で、想いが後でも。彼女を案じる気持ちがその日のあなたの中に、もう確かにあった。だからこそ、その羽が目に留まった。それは「思い込み」じゃなくて、あなたが彼女を大切に思っていた証拠そのものだと私は思うんです。
ケンゴ: ……それは一理ある。否定はしない。ただ私が懸念するのは、こういう出来事を「霊的なもの」と確定させてしまうと、次に何か起きたとき不安に振り回されやすくなることだ。意味を持たせること自体は否定しない。だが、意味を「決めつけない」余白も残しておきたい。
サキ: ところで、ご本人の話に戻りますが──あなたは「霊的なものは信じない」と何度も書いておられますよね。信じない自分とそれでも偶然と思えない自分。その二つのあいだで揺れていらっしゃる。その揺れ自体が、とても誠実だと思うんです。
シオン: ……お二人の言葉は、どちらも嘘ではないだろう。蛾は灯りに寄った。それは確かなことだ。そしてあなたの心は彼女を想った。それも確かなことだ。
事実と想い。そのどちらかを選ばねばならないと、誰が決めたのだろうか。
古い言い伝えでは、去る者が虫やけものに姿を借りて、一度だけ戻る話が世界中に残されている。それらが本当かどうかを、私は言わない。けれどこれだけの数の人間が、長い時間をかけて同じような物語を語り継いできたという事実──それ自体に、人の心の働きが映っている。
あなたは「信じない」とおっしゃる。けれど、信じる信じないの手前でもう一つの問いがあるのではないだろうか。あの夜白い羽を見つめたとき、あなたは彼女とほんの短いあいだ一緒にいた。その時間が本物だったことは、誰にも否定できない。
問題はそれが、霊だったか虫だったかということではないのかもしれない。あの夜、あなたが彼女を想ったこと。それをこれからどう抱えていくか。ただ、それだけのことではないだろうか。
自分に問いかけるロードマップ
- 私は「霊的なものは信じない」と思いながら、何を確かめたくてこの問いを抱えているのだろう。
- あの夜の出来事を「偶然」と片づけたとき、私の中で何かが寂しくなるとしたらそれは何だろう。
- 彼女を悼む気持ちと白い羽の記憶を、切り離さなければいけないと思い込んでいないだろうか。
- 「彼女がお別れに来てくれた」と感じることは、私にとって苦しみだろうか、それとも、ささやかな救いだろうか。
本日の羅針盤
科学的に言えば、大きな蛾が灯火に寄り同じ場所に戻ることは、起こりうる出来事です。ケンゴの言う通り、それは確かに一つの真実です。
けれどサキやシオンが照らしたように、その夜あなたの心に灯った彼女への想いもまた、まぎれもない真実です。二つはどちらが正しく間違いなのかではなく、ただ並んで存在しているのだと思います。
無理に「霊だった」と信じる必要も、「ただの偶然だ」と切り捨てる必要もありません。あの夜、あなたが彼女と過ごした静かな数分間。その記憶をあなたなりの形で、これからも胸の中に置いておかれてよいのではないでしょうか。
もし、同僚を亡くされた悲しみが長く続き、日常生活や眠りに支障が出るようなことがあれば、グリーフケア(喪失の悲しみへの支援)の専門窓口やお近くの相談機関に話してみることも、どうぞご検討ください。誰かに語ること自体が心を少し軽くしてくれることがあります。






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