第二章:味噌汁の湯気の向こうに──「食」という、いちばん身近な処方箋
第一章を書き終えてから、私は冷蔵庫の野菜室を開けてみました。
半分残ったキャベツ、しなびかけた人参、賞味期限が今日までの納豆。
娘の偏食がひどくて、白いご飯と唐揚げと、たまに苺。それ以外はほとんど口にしてくれません。
「ちゃんと食べさせなきゃ」と思うほど、食卓は戦場になります。スプーンを投げられた日の夜、私はキッチンに立ったまま、自分用のおにぎりすら握る気力がありませんでした。
そういえば最近、自分が何を食べたか思い出せないんです。娘の残した冷たい唐揚げを立ったまま口に押し込んで、それで一日が終わっている気がします。
サキとシオン、台所から始める話
サキ:第一章を読み返しながら、もうひとつ気になっていたことがあるんです。あなたが「夜十時にようやく娘が眠った」と書かれた後、ご自分の夕食の話が一行も出てこなかったこと。これ、見落としていい話じゃないんですよね。
ADHDのお子さんを育てているお母さんの多くが、知らないうちに「立ち食い」「ながら食い」「子どもの残飯処理」を自分の食事だと思い込んでしまうんです。これは怠けでも手抜きでもなくて、子どもの食卓の不安定さに自分の胃袋まで巻き込まれてしまっている状態ですよね。
シオン:食べることは本来、その日の自分に「今日もここにいていい」と告げる行為ではないだろうか。残り物を立って飲み込む夜が続くとき、その合図は自分自身に届かなくなっていく。
サキ:そうなんです。それから娘さんの偏食について。これも誤解を解いておきたいんですけど、ADHDや自閉スペクトラムの傾向があるお子さんの偏食は、わがままじゃないんですよ。口の中の感覚過敏──舌触り、温度、噛んだときの音、匂いの強さ──これらが定型発達のお子さんよりずっと鋭く届いてしまう。「白いご飯と唐揚げと苺」というラインナップ、実はとても理にかなっているんです。
白米は味と食感が均一で予測可能。唐揚げは衣のカリッとした音と中の柔らかさのコントラストが心地よい。苺は甘みと酸味のバランスが安定している。お子さんは自分の感覚で安心できる食べ物を、ちゃんと選び取っているんですよね。
シオン:「食べない」のではなく「食べられる世界が、まだ狭い」。そう捉え直すと、見える景色が変わるかもしれない。
お母さん自身の「補給ライン」を設計する
サキ:ここからは娘さんの食育の前に、お母さんご自身の食の話をさせてください。これ、順番が大事なんです。
慢性的な疲労と「この子がいなければ」という雑念は、栄養の枯渇と無関係ではありません。特に長期にわたる育児ストレス下では、以下のような栄養素を消耗しやすいことが厚生労働省の「日本人の食事摂取基準」や、栄養疫学の研究でも繰り返し指摘されています。
- 鉄分:女性に不足しがち。慢性疲労、イライラ、抑うつ感に直結する。
- ビタミンB群:神経伝達物質の材料。ストレス下で大量消費される。
- タンパク質:心の安定に必要なセロトニンの材料。残飯処理だけでは絶対に足りない。
- マグネシウム:筋肉と神経の緊張を緩める。不足すると寝つきが悪くなる。
難しいことを言うつもりはないんです。むしろ逆で、「自分のための一品を、立ったままじゃなく座って食べる」。これだけです。
例えば、納豆ご飯に卵を落としただけのもの。鯖の水煮缶をそのまま器にあけたもの。豆腐に鰹節とごま油をかけたもの。
調理時間ゼロでも、これらは鉄・タンパク質・マグネシウムが揃っています。台所のシンクに寄りかかってじゃなく、椅子に座って、お茶碗を手に持って、三分でいいから食べる。それだけで体は「今、生存を許されている」という信号を受け取るんですよね。
シオン:子どもの食卓を整えようとする手は、たくさんある。けれど、自分の前に箸を置く手は自分にしか動かせない。
娘さんの食卓は、「広げる」より「守る」
サキ:娘さんの偏食については、今すぐ品目を増やそうとしないでください。これ、本当に大事です。
感覚過敏のあるお子さんに「ひと口だけでも食べてみて」と促すのは、私たち大人で言えば苦手な虫を口に入れろと言われているのと同じ衝撃なんです。無理に広げようとすると、今食べられている「白米・唐揚げ・苺」までが、嫌な記憶と結びついて食べられなくなることがあります。これを「食の縮退(しゅくたい)」と呼ぶ専門家もいます。
今は「広げる」ではなく、「守る」フェーズです。娘さんが安心して食べられる三品を、責めずに笑顔で出す。それだけで、栄養面は最低限担保されます。白米には鉄分が強化されたふりかけを足す、唐揚げの衣に少し豆腐を混ぜる、苺と一緒にヨーグルトを添える──こういう「気づかれない補強」のほうが、今の段階では百倍効きます。
新しい食材に挑戦するのは、娘さんが学校や生活に慣れて、感覚の許容量が広がった頃でいいんです。それは半年後かもしれないし、二年後かもしれない。比べる相手はよその子じゃなくて、去年の娘さん自身ですよね。
本質的な結論:「ちゃんと食べさせなきゃ」と思い詰めているお母さんに、いま必要なのは栄養指導書ではなく、自分のための一杯の味噌汁です。娘さんの食卓を変える前に、お母さんが座って食べる。
これは順序の問題ではなく、構造の問題なんですね。土台が痩せていれば、その上に何を建てても崩れます。鯖缶でいい、納豆でいい、コンビニのおにぎりでもいい。
「立って食べた日」と「座って食べた日」を、カレンダーに○と×でつけてみる。一週間続けると、自分の摩耗の正体が数字として可視化されます。娘さんの偏食と向き合う体力は、その○の数からしか生まれません。
参考にできる情報源
- 厚生労働省「日本人の食事摂取基準」(成人女性の必要栄養素の目安が確認できます)
- 各都道府県・指定都市の「発達障害者支援センター」(偏食を含む食事面の相談も受け付けています)
- お住まいの自治体の保健センターに在籍する「管理栄養士」(無料の個別相談枠を持つ自治体が多数あります)
※具体的な連絡先は、お住まいの自治体名と「保健センター 栄養相談」で検索すると最新情報にたどり着けます。




コメント